絵  presented by 彩根 耕二
 
 
キッチンの備え付けのコンロに火を付ける。
青白いガスの炎を眺めながら、ミルクを注いだ片手鍋を弱火に掛けた。
弱い火はまるで自分の様。
柔らかな風にも消えてしまいそうなそれは、あまりにも心細い。
母親は言った。
「あんたは、世の中を甘く見てる」
反抗心に燃える俺の顔に、母親はなお言葉を叩き付けた。
「自分一人で何が出来るのよ、料理の一つもろくに作れないくせに」
あの時の言葉を思い出すたびに身体のどこが沸騰する。
「容易く、他人一人を値踏みしやがって」
独り言が自然に漏れる。
だいたい、世界の神でさえ、俺を笑う権利はないはずだ。
この100円均一で買った片手鍋と、コンビニで買ったミルク、炎を保つガスの光熱費は、すべて自分が払って手に入れた物。
今までコツコツと地道にバイトで溜めた貯金。
それらを使ってこの部屋を借り、家具を手に入れた。
この部屋と家具は自分が自分に与えた最初の武器。
これらの武器で、自分の夢を叶えてみせる。
弱火が消えない様に、ガスを最大まで開けた。
 

強火にしたせいだろう、ミルクの上に薄っすらと膜が張っていた。
それを気にせずに日清のカップヌードルに注ぐ。
こうやって沸騰したミルクで作ると、ただのカップヌードルが嘘のように美味くなる。
母親はこの食べ方を見て「気持ち悪い」と言った。
食べた事も無いくせに。
俺は注ぎ終った鍋を水の張った桶に沈め、カップヌードルの蓋を閉める。
そのままカップヌードルを片手に持つと、ゆっくりと歩き出した。
1DKの部屋の大半を占めるものに近づく。
それは一つの真っ白いキャンバス。
その純白のキャンバスの前に腰を降ろす。
キャンバスを見つめていると、その真っ白なキャンバスに母親の顔が浮かびあがった。
そして、母親は口を開く。
「絵描きなんて、本当に才能が無いとご飯なんて食べていけないんだから」
試した事も無いくせに。
あんな言葉で俺が諦めるとでも思ったのだろうか。
一度決めた覚悟がその程度で揺らぐはずなんてないのに。
「容易く、覚悟の前に立ちはだかりやがって」
また、口から独り言が漏れた。
俺が諦めるのは、この絵筆が折れた時だけだ。
キャンバスの下に置いてあった絵筆を握る。
その絵の具のついていない絵筆をキャンバスに当て、おもむろに×マークを描く。
キャンバスに浮かんだ母親の顔は、何時の間にか消えていた。
 

白く濁ったスープを飲み干すと、身体は自然と温まる。
俺は空になったカップヌードルの容器をごみ箱に投げ捨てると、さっそく筆をとった。
この部屋で……いや、このアトリエで初めてキャンバスを埋める。
大学では何度も繰り返した事が、とても新鮮に感じた。
さて、いったい何を描くべきか。
不意に大学時代が頭に浮かぶ。
がむしゃらに絵筆を叩き付けた日々。
そういえば、あの頃の自分には恐いものなんて無かった。
何時の間に腑抜けにになってしまったのだろう。
箱からキャスターマイルドを一本抜き出し、食後の一服をしながら思い出す。
腑抜けになったのは大学の4回生の時。
就職に頭を抱える日々。
友人達は美大卒という経歴を振り払うように、普通の会社に内定を決めていった。
そう、あの時だ。
俺はあの時に流された。
白いキャンバスは友人の顔を映す。
「しょせんさ、絵描きだ芸術家だの夢を追い求めても、良い事なんてないんだって」
友人の顔はそれだけ呟くと消え、もう一人別の友人が顔を出す。
「そうそう、やっぱ俺等ってアライやタケモトみたいに才能ないしさ」
別の友人は消え、もう一人の人物が顔を出した。
「だよな、やっぱ親とか泣かせるの嫌だし。無理だよな、絵描きなんて」
そう呟いた三人目の人物は自分だった。
俺は必死に首を振る。
そうじゃない。
決して、そうじゃない。
自分はまだ、諦めていなかった。いや、諦めきれなかった。
だから、今ここにいる。
俺はキャスターマイルドの煙を一気に肺に入れると、それをキャンバスに吹きかけた。
紫煙がキャンバスを洗い、そこから自分の腑抜けた姿を追い出す。
「容易く、自分自身を値踏みしやがって」
独り言を自分に言い聞かせる。
世界の神が俺を笑っても、自分ぐらい自分を信じてやらなければ救われないだろう。
俺はタバコを灰皿に押し付ける。
紫煙は風に流れ、やがて辺りから消えてく。
描くものは決まった。
ありったけの夢や希望。
それをキャンバスに塗りたくる。
他人が目を疑い、笑い飛ばすようなくだらない絵でも、描ききった自分にとっては宝物と言える絵を描いてやろう。
自分の言葉に身体が高揚していくのを感じる。
俺は机から手鏡を取り出し、自分の顔を映す。
そこに映る自分自身は以前の腑抜けた自分ではなかった。
鏡の中の男が「頑張れ」と口を動かす。
俺はその言葉に頷き、絵筆をとる。
そして、キャンバスに描かれる自分の顔。
その顔は遥か夢と希望を見据えていた。


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