今、還る光に
 
 この光の玉を追いかけてどれくらいが経っているのだろうか。
 りつは次第に激しくなっていく鼓動と呼吸を抑えつつ考えた。
 奇妙な音に起こされてみると庭にはこの光の玉が浮かんでいた。そしてりつを待っていたかのように森の中に入っていってしまった。りつは寝間着のままであるのにかまわず、草履をつっかけてそれを追った。
 普通なら正体不明の光の玉を一人で追いかけて行くことなどしやしないだろう。幼なじみのおようなどであったら、悲鳴をあげて気絶しているかもしれない。
 おようは自分の知らないものを非常に恐れる子だ。人見知りは激しいし、買い物でもいつも同じ店にしか行かない。少し離れた町で市がたつときにも、他の娘たちは先を争って行こうとするのに、彼女は見向きもしない。彼女の世界は村の中で完結している。
 そんなおようをりつは理解できなかった。
 見たことのない世界ほど興味を惹かれるものはない。できることなら市だけでなく、もっともっと遠くへ、そう、旅に出てみたかった。
 しかし、女の一人旅は危険で許されるはずもなく、そんな余裕もない。身のうちに不満をためながら、与えられたこの村の中の生活で何らかの変化を求めて気を紛らわせていた。
 そんな中で見つけた新しいもの。
 この正体不明の光の玉を見捨てておく手はなかった。
 それに、正体がわからないのに何故か怖くない。なんだって新しいものにはいっぱいの好奇心と少しの恐怖が伴うものであったのに、不思議とこの光の玉にはそれがない。
 むしろ、既知の親しみすら感じているような気がした。
 けれども、こんなものを見た記憶はりつにはなかった。
 光の玉は当初、白く人の頭くらいの大きさであったが、ときどきその色と大きさを変えた。急に小さく青くなって止まったかと思えば、橙に似た火の色になって元よりも大きくなったり、森の奥に進んでいく速さも速くなったり遅くなったり。
 手が届きそうなほど近づいたと思ったら、すっと速くなってりつから逃げて行ったり。
 まるでりつを導いているようにつかず離れずの位置を保っていた。
(「導いている」?)
 そうなのかもしれない。何かの意思が働いているようにこの光の玉は動いている。生き物のような意思を感じた。
 けれど、怖くはない。
 そうこう考えていると、草に足をとられて転んでしまった。
 寝間着の裾ははだけるし、土はこびりつくし散々だったが、光の玉は見失わずに済んだ。光の玉はりつのすぐ近くで止まっていてくれたからだ。
 呆然とそれをみつめた。光の玉は漂いながら、それでもりつを待っていてくれていた。
「待っていてくれるの? ありがとう」
 そう話しかけると、少し大きくなってほのかに桃色に染まる。人にたとえるならてれているかのように。
 言葉は通じるようだった。そして人くさい光の玉にますます興味を惹かれた。
 光の玉はまた元に戻ってさらに奥へと進み始める。りつは置いていかれないようにすぐに立ち上がって、土を払い裾を整え、追いかけた。
「どこまでいくの!?」
 光の玉は赤く染まった。りつにはそれがもう少しだといっているように思えた。
 いいかげん疲れてきていたのでほっと胸をなでおろした。
 気を取り直して光の玉を追う。少しすると小さく水音が聞こえた。そういえば、この森の奥には沼があったのだ。この光の玉は沼まで行くつもりなのだろうか。
 光の玉は速度を速めた。りつも倣って歩調を速める。
「ちょっと待ってよ、ねえ」
 すると光の玉は草叢の向こうでぴたりと止まった。りつは必死で足を動かして光の玉のところまで行こうとした。しかし、最後の草叢を掻き分けるとすぐに水がせまっていてそれ以上進むことができない。
 かがんで水に手を触れてみると、凍えるほどに冷たく、入っていくことはできそうもなかった。たった一人で入っていってもし動けなくなってしまったら、助けなど期待できない場所のため命を落としてしまうことになるだろう。
 考えあぐねていると光の玉はその止まった場所でどんどん膨れ上がっていき、その光を強めていった。
「な、なに!?」
 もう玉とは言えないほど大きくなって光そのものとなったとき、より一層強く光を放ち、あまりのまぶしさにりつは目を開けていられなかった。
 やがて強い光がひいて目を開けると、ちょうど光のとどまっていた位置に銀色に輝く龍の姿があった。
「……龍…神…」
 自分自身のつぶやきにはっとしてりつは手で口を押さえた。
 沼に住まうは龍神。近くの神社にも祭られている神。そして、村の守り神でもある。
 よき天候を願い、供物を捧げるあの神が今、りつの目の前にいた。
 人とは比べ物にならないほど大きく、銀色の鱗を輝かせ、水面の上に浮かんでいる。水晶のような瞳の美しさにりつは見惚れた。綺麗という言葉だけでは表現しきれない美しさがそこにあった。これを神々しいというのだろうか。
 無意識のうちにりつは膝をついていた。へたり込んでしまったといってもいいだろう。畏怖というものであろうか。しかし、依然として最初に感じた親しみは抜けなかった。
『……りつ』
 ふいに龍神に名を呼ばれた。驚きは動悸を激しくしたが、その声には聞き覚えがあった。
 柔らかで低い男の声だった。りつは必死で記憶をたどった。
『りつ、俺だよ』
 もう一度名を呼ばれた。それで思い出すことができた。
「……祥太(しょうた)?」
『そう、祥太だよ』
 祥太はりつの隣の屋敷に住む幼なじみの一人だった。体を壊して寝込み家から出ることがなく、たまに見舞いに行っても会うことができなかったので思い出すのに時間がかかった。そう最後に会って会話を交わしたのは一年は前のことだろう。
「どうして祥太が龍の姿をしているの……」
『俺が龍神をその身に宿しやすい巫子の末裔だから』
「そんなこと、聞いたことがないわ」
『俺だってそうだった。神主の家は別にあるしな。でもどこかでその血が入っていたらしい。俺はちょうど去年の今頃に初めて龍神を宿した。そして龍神の力を借りて豊穣を祈り、叶えてきた。けれど、その力の反動で普段の俺はほとんど動けなくなった。意識も言葉も龍神に入れ替わってしまうときすらあった』
 祥太が話しているのはわかっていたが、龍の口は動いていない。頭に直接響いてきているようだった。淡々とした話し方は確かに祥太だった。柔らかくて心地よい響きだった。
「だから、誰も会わせてもらえなかったのね。突然龍神が話し出したら困るから」
『そうだ。家族と神主と、俺の中に住まう龍神以外と話すことは危険だったから』
「な、ぜ?」
『人は神を恐れる。神の力は絶大だから。だから祀る。供物を捧げ、祈る。どうか静かに我々を見守っていてくださいと。神主はその神との対話の代表を行う。皆が恐れる神と渡り合う。だからこそ人々は神主を立てて暮らす。神主に睨まれて神の怒りを買いたくないから。そうであるうえに、神をそのうちに抱く人間が目の前にいたらどうなると思う?』
 龍の――祥太の目がちらりと光った。
「恐れる……?」
『そう恐れるだろう。そして、過ぎた恐怖は身を滅ぼす。俺を恐れるあまりに、村を出て行く者もいるかもしれない。少数であれば何とかなるかもしれないが、不安や恐怖は増殖し波及するもの。出て行くものに恐怖を煽られてそれがどんどん増えていったら? そうなればたちまち村の生活は立ち行かなくなるだろう。だから隠さなくては、ならなかった』
 祥太の言うことはいちいちもっともだった。人は神に畏怖を持つ。目に見えるものでないからこそ、畏怖の対象として適格であれるのだ。その恐れを四六時中感じずにいられるから。
『でも、もう終わりだ。今日で俺は解き放たれる』
「え……」
 祥太は鱗を震えさせた。銀色の鱗はきらきらと光った。
『龍神は元いた場所に還っていく。俺の体を供物として、お還し申し上げるんだ。そして俺は、俺の魂は自由になれる』
「!!」
 りつは驚愕に体を震わせた。
 祥太は開放の喜びに鱗を震わせた。
 二人はお互いの感情を理解していなかった。
『この体を沼に沈め、龍神の導きを受けて天上に昇る。それで自由を得られる。……どうした、りつ。喜んでくれないのか?』
 祥太は青ざめながら震えるりつをみて問うた。
「……『体を供物とする』って、ようは死ぬってことでしょう? それをどうして喜べるっていうの!?」
 祥太はりつの言うことがわからないというように目を細めた。
『俺は束縛から自由になれる。人から隔絶された場より解放されるんだ。それを喜んでどこがいけないんだ』
「それでもあなたが一人であることは変わらないじゃない。場所が変わるだけだわ。一人で龍神を体に招きいれ、対話し、還し、そしてまたみんなとは違う方法で天上へと昇る。それじゃ、孤独は変わらないのよ」
『……』
 祥太は細めた目をゆっくりと閉じた。
 視界がぼやけ、温かいものが頬を伝うのを感じた。感情が高ぶり、あふれでた涙はりつには止めることができなかった。
『……それでも、俺は龍神を還さなくてはならない。それが、契約だから。俺の望むものでなくても――孤独なままでも、体を沈めて龍神を還すんだ』
 寂しげな声がりつの頭に響いた。
 温かい涙と胸をつく痛みに突き動かされて、りつは立ち上がり、そして冷たい沼に足を踏み入れて祥太に近づいて行った。
『りつ! 何をしているんだ。こんなに冷たい水に浸かっていたらおまえまで死んでしまうぞ! ああ、ほら唇が青ざめているじゃないかっ』
 寝間着の着物は足に絡みつき、歩みを妨げた。それでも少しずつ祥太に近づいて行く。だんだんと深くなっていき、祥太のところに行き着くころにはりつは胸の辺りまで水に浸かっていた。
『りつ! 早く戻れっ』
「戻らないわ」
 りつは手を伸ばして祥太の体に触れた。鱗はさらりと乾いていて、川魚のそれを触るときのように嫌な感触はなかった。むしろ気持ちよいくらいにすべすべしていた。そして、温かかった。りつは自分の体が冷え切って固まりつつあるのを感じた。かじかむ手がそれを証拠付けていた。
「私が祥太と一緒にいってあげる。二人なら寂しくないでしょう?」
『いらないっ。俺はおまえに一緒に来てほしくてここに呼んだわけじゃない!』
「ならなんで呼んだの?」
『……俺を、忘れてほしくなかった。それだけなんだよ! 俺はりつを死なせたくない! 戻ってくれっ』
「戻らない。なんと言おうともう決めたから。それに」
『それに?』
「もう、戻れないみたい、よ……」
『…………』
 りつは寒さに体力が削られていた。もう、岸辺に上がるまでもつかわからなかった。よしんば岸に上がれたとしても、家には帰り着けないだろう。
「ねえ?」
 りつは祥太を呼んだ。祥太は体勢を変えて顔をりつに近づけた。
 手をさらに伸ばして祥太を抱きしめた。龍の体は大きすぎて手が回りきらなかったが、それでもよかった。自分も一緒だと祥太がわかってくれればそれでよかった。
 手を離して、今度は水晶のような瞳の近くに口づけた。
『りつ……』
「一緒に、いきましょう?」
『……ああ』
 りつは祥太の前足、人でいうなら腕をとってさらに深い方へと進んで行った。
 ゆっくりゆっくりと、祥太もりつに合わせて進んでいき、水の中に入った。
 祥太を包んでいた光はそれを強くし、眩しさに再びりつは目を閉じた。腕を放さないように力を入れた。
 光がやんで目を開けると、一年前まで見慣れていた祥太の姿があった。
 二人は微笑み合うと、さらに歩みを進めた。
 頭まですっかり浸かり、最後の息が泡となって消えると、ただ波紋だけが広がり、静寂が訪れた。



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