境界線が消える時  presented by 彩根 耕二
 
 ……ポツリ、ポツリと雨がフロントガラスを叩き、やがて激しいドラムのビートのような音となる。気まぐれな、通り雨という邪魔物をワイパーで拭った。
 渋滞で動かない前の車をぼんやり眺めながら、俺はハンドルから手を放し、両手を組んで頭の後ろに置く。遠くの空からは眩しすぎる日差しが延びてくるのに、頭の上からは雨が降り注いでくる。
 雨でもなく、晴れでもない。ましてや曇りなんてものでもありはしない。
 天気雨とでも言うのだろうか。
 こういう天気の時は、いつもあの時を思い出す。あの時もこんな通り雨の降る、良く晴れた時の事だ。

 男と女の友情ってものがあるとすれば、あの時の真紀との関係がまさにそれだろう。
 俺からすれば、真紀は友達ではなく、彼女でもない。言うなれば親しい友達、親友という奴だろうか?
 ガキの頃からの付き合いで、中学高校と腐れ縁で顔を合わしていた。
 男女間って不思議なもので、あんまり長く顔を合わせていると、お互いを異性として認識できなくなるようだ。
 だから、真紀が男と付き合い始めたと聞いた時も案外冷静だったし、さほど意識はしなかった。
 ただ、境界線は絶対ではなく、何かの拍子に境界線が消える時がある。
 それが、良く晴れた雨の日。
 窓からは眩しい日差しが入り込むのに、屋根には雨音が響く。
 晴れと雨の境界線が消えた時、友達と恋人の境界線が消えた。

 西から差し込む太陽が眩しくて、カーテンを閉めた。ぱらつく雨が鬱陶しい。
 カーテンを閉める俺の背中に、真紀は言葉を投げつける。
「そうやねん、アイツ他に女作っててんでー。何か最近オカシイとは思っててんけど」
 真紀はそこまで一気にまくし立てた後、スーパードライを一口飲んで、急にトーンを落とした。
「しゃーないんちゃう? もっと色気を磨けよ」
 俺は笑いながら冗談を含んで言う。
「お前だけやとか、ドラマみたいな事言ってくせに……」
 その後が続かない。下を向いて黙り込む。
「えっ?」って思った。いつもなら頭に向かって一直線に飛んでくる拳骨。それが飛ばないどころか、あの気丈な真紀が涙を流している。
 想像してなかった反応だった。真紀の別れ話を肴に、笑って酒を飲むだけのつもりだったからだ。
 こういう反応をされると男は何もできない。ハンカチを取り出して「洗ってあるから」なんて言えるのは、それこそドラマでの行動だ。
 真紀の目からこぼれる、ショッパイだけの液体が、真紀が女だと言う事を認識させる。
 音が苦しかった。雨が屋根を打つ音と、真紀の小さな啜り泣きの音。
 その音が、言葉を言わせた。いや、本能的に言わねばならない気がしたのだ。
「大丈夫、真紀は可愛いから絶対に、良い男が出来るって」
 なるたけ、優しく呟く。正直な話なところ、真紀に向かってこんな台詞を吐くのが恥ずかしかった。微妙に顔が熱い。
 真紀は顔を上げて、一気に俺との距離を詰めた。俺の背中は壁に当たり、押し付けるような形で真紀に口付けされる。
 呆気に取られて俺を見て、真紀が口を開く。
「ごめんね。でも、私どうしたら良いか……」
「えっ……」
 この時、ものすごい間抜けな顔をしていたと思う。
 不意を衝かれたのもあるが、それより真紀がどうしてこういう行動に出たのかわからなかった。
 目の前には真紀の泣き顔。一瞬、抱きしめたい衝動に駆られたが、理性で押え込む。
「私って魅力無いかな?」
 その言葉で俺は理性を失った。

 車が動き出した。
 今になって思えば、あの涙と「私って魅力無いかな?」は卑怯だ。あの状況で言われたら……境界線も消えて当然だ。
 だが、あの言葉が無ければ、助手席でウトウトしている真紀はいなかった。
 だから、卑怯とは思いながらも感謝している。
 そう言えば、去年もある言葉によって、もう一つ境界線を消された。
「できちゃったみたい」
 この凶暴な言葉で、俺と真紀の姓の境界線は消える事になった。
 助手席でウトウトしている真紀に声を掛ける。
「真紀、アレすごいで」
 目の前には晴れと雨の境界線が消えた結果が、七色のラインとなって現われる。
 同時に、後ろのベビーシートからも、境界線が消えた結果による泣き声が上がった。


[目次へ戻る]
[トップへ戻る]