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 ここは日本有数の歓楽街。その薄暗い路地をやってくる背の高い影に少年は目を付けた。
 両手でモデルガンを構え、影に向かって突きつける。
「止まれ! 動くな!」
 長身の影は驚いたように立ち止まった。
 シルエットからして、おそらくスーツ姿。短い髪、痩身、広い肩幅。顔ははっきりとわからない。脅すのに不向きそうな体格のいい姿に、人選を誤ったかもしれないと少年は後悔した。が、事は急を要する。今更変更はできない。声が震えそうなのを必死で我慢して、少年は用意していた台詞を言い切った。
「お、おれを、警察に連れて行け!」
 明らかに影の主がとまどっているのがわかった。何をいうのだろうか、と。
 少年は唇を湿らせ、もう一度同じ台詞を繰り返した。
 だが今度の台詞は最後までちゃんということができなかった。後ろから野太い声があがる。
「いたぞ!」
 少年は体をこわばらせ影から視線をはずして後ろをむいた。影はもっと反応が早かった。すぐに少年は腕を掴まれ、引きよせられる。見た目よりもほっそりとした手で。
「こっち!」
 声を聞いて少年は驚く。想像していたよりもずっと高く柔らかな声。女の声だった。
「え? えええええ!?」
「走りなさい、早く!」
 力強く腕を引っ張られる。路地のゴミ箱を蹴飛ばし、あたりに臭いが散った。
「いたぞ、追え!」
「逃すな、あのガキ!」
 何人かの野太い声が追ってくる。少年は影の主……謎の女性に引きずられるように慣れた路地を駆けた。
 路地を抜け、女はとある車に駆け寄る。
「乗りなさい」
 乱暴にドアを開け、無理矢理といっていい勢いで少年を押し込んだ。その勢いときたら、まるで後ろから蹴飛ばされたかと思うほどだ。
「痛ってぇ……あんたなぁ!」
 少年が体勢を立て直し、女に文句をいおうとしたときにはすでに車は発進していた。慌てて後ろをみると、数人の男達がばらばらと路地から出てきたところだった。あまりにも鮮やかな逃避行。少年はやはり目を丸くしたまま、隣の運転席を見た。
 光が前からやってきては後ろへ逃げる。先ほどの路地で見たよりもはっきりと女の顔がわかる。こうやって光のあるところで見ると男には見えない。女にしては珍しい長身と肩幅の広さ、ベリーショートにすっかり騙されてしまったようだ。少年は隣の女に目をやりながら少し居住まいを正す。女性を銃で脅したというのはあまり気分のいいものではない。
 唐突に女が聞いてきた。
「あなた、何をしたんですか?」
 少年の心臓がひとつ大きく打つ。
「追ってきた連中は暴力団関係者のようでしたね。見たところあなたは未成年のようですが、警察に駆け込まれると彼らはなにか不都合なのですか?」
 固い物言いをする女だった。少年はその問いには答えなかった。
「……その辺の交番なんかじゃ駄目だ。大きいところ行ってくれよ」
「遠慮します」
 きっぱりと女は言い切った。
「私も少々後ろ暗い身なので、できれば警察とは関わり合いになりたくありません」
 女の車は歓楽街を離れていく。少年は口を開けた。やっぱりマズイのを引き当てたかもしれない。慌ててモデルガンを構える。
「こ、こここ、これが見えないのか!?」
 しかし女はチロリと冷たい目で見ただけだった。
「黒星(ヘイシン)なら見飽きてます。もしも本物なら、私に向けるより後ろに向けて欲しいものですが」
「へ」
 パーンと軽い音がした。
 少年は振り向く。後ろからは黒塗りのベンツが追いかけて来ていた。
「あいつら!?」
「町中で発砲とは穏やかではありませんね。最近は法規制が厳しいというのに。巻き込まれたのは仕方ないとしても、訳も分からず命をチップにギャンブルをするつもりはありませんので、理由くらい教えてもらえますか」
「あんた、ぜーったいギャンブルやんないタイプだろ。そうに決まってる!」
 少年は冷や汗をかきつつ軽口を叩いた。警察に駆け込めばなんとかなると思っていた。彼らがここまで必死になって邪魔しにくるとは予想外だった。黒塗りのベンツはどんどん追いあげてくる。
 女もぐんとスピードをあげた。
「少年、その銃は使い物になりますか?」
「……ごめん! ただのモデルガンです!」
「では少年、少しの間ハンドルを見ていてください」
 女は一言いうと運転席側の窓を全開にした。ハンドルから手を放し、車の天井に手をかける。少年は何をするか見ていたが「それ」を見た後は裏返った声を出すしかなかった。
「箱乗りー!?」
 ベンツは発砲を続けている。外は銃弾の雨、といえば少々大げさか。女は窓に腰掛ける。少年の位置からは女が何をしているか天井が邪魔になって見えない。仕方なく、言いつけどおりハンドルを握って前を向いていた。やがて車の天井のその上から、発砲音が響いた。
 一発、もう一発。
 バックミラー越しに見えるベンツは足を取られたように見えた。向こうがスリップして差はあっという間に開く。女は再び運転席に腰を下ろした。かすかに漂う煙臭い匂い。これが硝煙の匂いというやつかと少年は生唾を飲み下す。
「……それ、本物……?」
「だから警察には近寄りたくないんですよ」
 なんでもないことのように、女はけろりとしていった。いや、けろりとしているように少年には聞こえた。本当にとんでもない相手を引いてしまった。後悔してももう遅い。
「なぁ、頼むよ! 警察行くのが駄目ならせめて近くまでおれを届けてくれ。高見さんの仇を討ちたいんだ! 頼む!」
 信号が赤に変わる。車が止まった。女はその理知的な瞳をまっすぐ少年に向けてきた。少年もまっすぐに女の目を見つめる。覚悟を決めて。
「助けてくれよ……」

 事情があって少年は中学を出てすぐ、夜の街で働き始めた。むろん違法だ。マトモな所だと取りあってくれないので某暴力団関係の店でバーテン見習いとして働いている。
 一年ほど前、その男に出会った。最初は店の客として。未成年だということはすぐにバレた。彼は少年を根気よく説得し、ここを出て日の当たる場所に出るようにと説いた。肉親のように親身になってくれた彼の名を高見という。今までそういう心配をしてくれた人はいなかった。いたとしてもその場限りで流れていった。だが高見はずっとずっと少年を心配してくれていた。嬉しかった。少年は店の客として以上に彼が好きになった。
 その高見は刑事だった。ある犯罪をあげるために素性を隠してこの街に足を向けていたのだった。数ヶ月前ひょんなことから少年はそれを知った。裏切られたと思った。高見が自分を心配してくれたことは本当だったのに、一方的にひどく罵り、それが最後だった。高見刑事は翌日、死んだ。道端で、犬ころのように。消されたのだと少年は直感した。だが高見がこつこつ調べ上げた証拠はどこからも出てこなかったらしく、しばらくは彼が足を向けていた全ての店でヤクザ達が目を光らせていた。どこからも何も出てこず、すべては時間がおだやかに忘却の彼方へ押しやろうとしていたあるとき、少年は見つけてしまったのだ。以前預けられたモデルガン、その中にUSBメモリが隠されていたことに。

「その黒星の中に?」
 青信号に従って車は再び発進する。さすがに女も顔色を少し変えていた。
「外国の犯罪勢力がこの街に手ぇ広げる計画してるだとか、それを手引きしてる組とか、そーゆーデータ。おれには詳しいこと分かんないけど」
「あなた、それを見たんですか?」
「うん。パソコンで……あ、でも全部は見てないよ」
「……データはおそらくハードディスクにもある程度残ったでしょう。彼らはそこから証拠があなたの手にあることを知ったのかもしれません。あなたの正義感には感服しますが、高見巡査が追っていたものはあなたの手に負えるようなものではないんですよ」
 女は額に手をやった。だが少年は、何といわれようとこの役目は自分で果たすのだと決めていた。少年は信じきれなかったのに、高見は少年を信じていた。託されたデータはその証のように思えた。女がいうような正義感からの行動ではない。これは高見に対する贖罪であり、不当に大切な人を奪われたことに対する私怨でもあった。
 そのことを告げると、女は口元に寂しげな笑みを浮かべる。
「そうですね。――私怨、ですものね」
 この女の口元がほころぶのを見たのは初めてかもしれない。ひどく物悲しく、優しい笑み。
 次の瞬間、車のバックガラスが壊れた音と銃声が同時に耳に届いた。
 しまったと思ったが手遅れだ。フロントガラス一面に蜘蛛の巣状のヒビが入った。車は盛大にスピンする。少年は頭を抱えて体を折り曲げ、女はその上に覆い被さった。まるで少年を守るように。
「おい、あんた!?」
 車はガードレールにぶつかって止まった。叩きつけられ体中に痛みが走る。女がクッションになってくれたおかげか怪我はなかった。
「大丈夫ですか?」
「そっちこそ大丈夫なのかよ!」
 少年は女の体を払いのける。
「なら外に出なさい。走って!」
 女は少年に心配させる隙を与えないかのように指示を出した。少年は一瞬気圧されたが、ドアを開けた。外に出た瞬間に狙い撃ちされるだろうと予想はついたが、なぜかそうしなければいけないような気がした。女の声にはそれだけの迫力があった。
 この辺りは例の歓楽街に比べるとそう明るくはない。少年は撃ってくる方向に車の姿を見つけたが車種までは分からなかった。銃声が少年に向かって飛んでくる。すぐ女の叱咤の声も飛んだ。
「ただの威嚇です、止まったら当たりますよ!」
「んなこといったって怖いもんは怖いんだよ!」
 二人は路地裏に逃げ込んだ。例の車からは何人かがおりてくる。女は少年の腕を引っ張った。こっちだ、と、慣れた様子で追っ手をまいていく。少年はとにかく必死で女の後をついていった。
 いつのまにか銃声がやんでいる。
 女と少年は、閉鎖した飲食店の空き店舗を見つけて裏口から入り込んだ。
「ひとまずここで時間を稼ぎましょう」
 そういって女はケータイを開いた。どこへ連絡しているのか素早くメールを打っていく。
「銃声、やんだよね」
「シマが変わりましたからね。あまり派手なことをするとシマ荒らしと見なされてここの組員を敵に回しかねませんから、発砲をやめたのでしょう」
「それが分かってて、ここに逃げ込んだ?」
「組長のところに身を寄せるという手もありましたが、そちらのほうがよかったですか?」
 少年は力一杯首を真横に振った。随分と顔が広いらしい。この台詞ひとつとっても決してまともな人間ではなさそうなのに、口調のせいか女から受ける印象は一貫して真面目なイメージだ。
「さっき、なんでおれなんかをかばったんだよ!」
「助けてといったのはあなたのほうでしょう?」
 少しだけ苦笑をまぜて女は答えた。少年はとまどうしかない。高見が死んだとき自分の味方はこれで一人もいなくなったと思った。なのに今、隣に座る女が自分の味方をしてくれているような気がしている。なぜだか分からなかった。
 女はメールを打ち終わったのか、ぱたんとそれを閉じる。そして少年に向かって、いった。
「本当をいうとね。あなたの私怨には覚えがあるからですよ」
「……?」
「私も昔、大切な人を消されたことがあるんです」
 柔らかな笑みを浮かべた。目元がとても寂しそうな。少年は目を見張った。
「あれは本当に嫌ですね。悲しくて、なにより喪失感が大きくて……何かしないではいられなかった。本当はね、犯人を見つけたら全員血祭りにしてしまおうとまで思ったんですよ。幸い、止めてくれた人がいたので人殺しにはならずに済みましたけれど」
 女の口元がほころぶ。自嘲するような愉快そうな、判断の付かない小さな笑み。
 少年は納得した。だから親身になってくれたのか、と。あの悲しみを、やりきれなさを、自分の無力さを思い知るしかない痛みを知っているから。
 少年は唇を引き結んだ。このまま昔話が続いてしまったら、きっともっと胸が痛くなる。だから無理矢理、話を変えることにした。視線を女からモデルガンへと移し、ぽつりと呟く。
「この銃さ、あんた、なんていったっけ。ヘイシン?」
「ええ。中国製トカレフ――正式名称ノリンコM54のことをそういうんですよ。グリップに五芒星がデザインされてるでしょ。『黒星』と書いて……発音はこうですね」
 女は床に指で、 hei xing と綴った。
「へえ。エックスを使うの、なんか変な感じ」
「ピンインといいます。中国語の発音を表現するのにアルファベットを使うんですよ」
 女は、少年の手をとった。掌に文字を書く。xing。先ほど教えてもらった「星」の表記。
「中国語は発音が同じでも声に付ける調子が異なると意味が変わります。例えば『xing』はトーンが第一声だと『星』、第四声だと『幸』という意味になります」
 少年の掌の上で「i」の上にアクセント記号らしきものが書かれる。最初は真横に、次は上から下へ。
「私がいう台詞ではありませんが出来るならその黒いお星様は手放すことをお薦めします。持っていても、あまりよいものではありませんからね。同じ握りしめるのならこちらにしておきなさい」
 そうして女は「幸」と書くと、少年の指をひとつひとつ折り曲げ握りこませた。女の手が少年の拳を包む。
「あなたも幸せにならなくては」
 少年は女の顔を見た。慈しみに満ちた笑顔。血の繋がった母親からもこんな顔は見たことがない。死んだ高見の言葉を思い出した。こんなところにいてはいけない、日の当たる場所に出るように、と。思わず涙腺がゆるみそうになって、少年は乱暴に手を振り払い、目元をぬぐった。
 外ではパトカーのサイレンが響いていた。だんだんそれが近くなる。少年は慌てて女の顔を見たが、女は落ち着き払っていた。警察には近寄りたくないといっていたのに。
 唐突に少年は、彼女が先ほどのメールで警察を呼んだのだと察した。
 少年の視線に、いいのだ、と目だけで制す。パトカーはほどなくして店の周りを固めた。

 先頭切って現れたのはブルドッグに似た顔をした中年の刑事だった。少年は緊張で体をこわばらせる。女はというと直立不動で敬礼してみせた。
「ご無沙汰しております、課長」
 ――少年は開いた口が塞がらなかった。
 女は苦笑しながら中年刑事を紹介する。
「元上司です。私、高見巡査とは同期だったんですよ」
 その刑事は鬼のような形相で女を怒鳴りつける。
「このバカモンが! あの事件以来音信不通だったくせに、こんなときだけ連絡してきやがって。あれからどうしてたんだ、ええ!?」
 女は晴れやかな顔して、いった。
「結婚しました」
 台詞の意外さに、少年と刑事は目を点にする。女の左手の薬指に指輪はない。女は小声で、少年に向かって少し嬉しそうにいった。
「止めてくれた人と、です」
 人殺しになるのを。言外の意味をくんで少年は納得する。女に問うた。
「……今、幸せ?」
「はい」
 幸せになったのだ、彼女は。同じプロセスを経た彼女だからこそ自分にも幸せになれといってくれたのだ。
「あなたを狙う組織のほうは私達でなんとかします。いいですね、幸せになるんですよ」
 私達、と、複数形だったのは女とその旦那のことだろうか。
 刑事が慌てて声をかけた。
「おい、所轄の連中には会っていかんのか!」
「顔を出せるような身じゃありませんよ。それじゃ、あとはよろしくお願いいたします」
 警官が固める間をぬって女は颯爽と立ち去っていく。少年は何か声をかけようと思ったが、かける言葉が見つからずに何もいえなかった。

 少年の隣で中年刑事が独りごちる。
「あいつの恋人ってのは、上の内部汚職を追ってる最中、殉職してな。あいつはその翌日警察を辞めた。以来音沙汰なかったが……しばらく前にウチの偉いさんが一斉に逮捕されて新聞沙汰になったろ。あれは多分あいつの仕業だ。ちゃんとテメエで仇、討ちやがった。今は何をしてるか知らんが……」
 女が現在なんらかの形で裏社会に関わっているだろうことを、少年はその目で見て知っている。警察に大切な人を奪われて、極端から極端に走ったのかもしれない。
 けれど。
 少年には、そんなことはどうだってよかった。

 少年は拳を握りしめる。
「刑事さん。あのひとの名前、教えてくれないか?」
 その手に握られているのはもう黒い星ではなく、闇の中小さく輝く―― Xing。
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