Grog

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  Grog  

 イルミネーションに彩られた公園で、寄り添い合う恋人達を尻目に、男が一人。
 使い込まれた銀色のジッポを開けるとキン、と独特の甲高い音を立てた。石を擦る音。煙草に火を付けた。最後にパチンと音を立てて蓋を閉めるまでが一連の動作。
 街灯にもたれかかるようにして紫煙をくゆらせる。
 広がる香りはフロンティア。
 空は今にも雪が降りそうな曇天。

 この煙より高く遠いところへ。
 ひとりで、いかせた。
 ふたりで、のこされた。

 やがて体の芯まで冷え切った頃、コートの襟を立てて、男はその場から立ち去った。

   *

 チリン、チリンとドアベルが鳴って、バーの扉が開かれたことを店内に告げる。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
 背の高い男が一人、入ってきた。男が店内に足を踏み入れると、彼の眼鏡の表面がふわっと曇る。
 一番年若いバーテン見習いが飛び出していって男の側に立った。
「コートをお預かりします」
「ん」
 男は見習い少年をちらりと見た後、カウンターの中にいる白髪の老オーナーに向かって話しかけた。
「なんや、えらい若いのがおるやん?」
 関西弁だった。珍しいとはいわないが、なんだかテレビの向こう側にいる人間のような気がして少年は少し驚く。
 老オーナーは穏やかな声で返答した。
「いいでしょう。まだ十八ですよ」
「へーえ?」
 男は曇った眼鏡を外し、少年に顔を近づけてきた。至近距離で近づいた顔は、笑うと、先ほどよりずっと童顔になる。人を惹きつける魅力のある存在感だった。
 コートを預かってもう一度驚く。
 コートの下は黒のスーツ。ネクタイまで黒だった。喪服と一目で分かる。
 オーナーではない、もう一人のバーテンがカウンター席の一番端に案内をする。思わず少年は口の中でつぶやいた。
「え、でも」
 そこは、二人分の予約席のはずである。すると即、バーテンが目で注意してきた。つぶやきは、さほど広くない店内では十分聞き取れる大きさの声として出てしまっていたらしい。それはお客様にも同じこと。男は苦笑しながらバーテンにいった。
「予約、は、してへんけどな……?」
「毎年この時期にいらっしゃるでしょう。うちの従業員が失礼をいたしました」
 男は素直に案内に従った。
 席に着く前に携帯電話の音を切って懐にしまいなおした。カウンター席に座った男の前に、ロウソクの灯りとガラスの灰皿が置かれる。彼の担当はバーテンに決まったようだ。老オーナーはその隣でグラスを拭いている。少年は自分もまたボトルを拭き始めた。
 どうしても会話は耳に入ってきてしまうものだが。
「お連れ様はあとからいらっしゃるのですか?」
「いや、今年も一人。悪いね」
「そのようなことはございません。失礼しました」
「うん、まあ……今年くらいは二人で、とも思たけどな。まあ今年も、いつもと一緒。命日に一人酒や」
 から笑い。
 メニューには目を通さず、男は注文した。
「いつものホットラム」
「あのねェ。いつもいってるでしょ。うちのメニューにはグロッグ(Grog)って名前で書いてるって」
 だんだんとバーテンの口調がくだけてきた。よほど親しい常連か、あるいは前々からの知り合いか。
「せやけどその名前、グロック(Glock)と紛らわしいねんもん」
「そんなもんと一緒にするのは、あなたくらいでしょうが」
「ラム多め、な♪」
「人の話を聞かない方ですね」
 耐熱グラスに少し温めたダークラムを入れ、レモンのフレッシュジュースを注ぐ。それを熱湯で割った。本来ならここで角砂糖の出番だが、代わりにガムシロップをスプーンひとさじ。シナモンスティックでビルドして、最後にクローブを数粒添える。
 隣で見ていた少年は、標準的なレシピよりも随分熱湯が少ないような気がしていたが、先ほどの男の台詞を思い出して「あれはこういう意味か」と一人納得した。
「お待たせいたしました」
 男は嬉しそうに口をつけた。 
「あったまるわぁ」
 ふわっと、また男の眼鏡が曇る。
 表情が読めなくなった。

 それきり男は黙り込んでしまった。

 バーテンも話しかけない。老オーナーも話しかけない。
 少年もそれに倣って、黙ってグラスを拭いた。
 誰も、喪服の男にかける慰めの言葉は持っていない。
 だから、苦しそうに寄せられた眉間のしわも、時々震わせる肩も、少年は見ないふりをした。

 耐熱グラスの中のホットカクテルがなくなって。
 男が顔を上げた。
 そこにはもう、笑顔があった。
「一杯きりで悪いけど今日はもう帰るわ。今年は、ウチで嫁さんが待ってるしな」
 はい、と、バーテンたちも微笑みながら返す。
 少年はとっさに男の左手を見たが、薬指に指輪はなかった。
 なんだか前にもこんなことを思ったような気がする。そんなことを思いながら客を見ていたら、男と目が合った。
「また来るわ」
 にこっと、なぜか愛嬌のある笑顔でいわれた。少年は頭をさげる。そうしてコートを取りにいくため小走りで駆けた。
 老オーナーが静かな口調でこぼした。
「あなたに、再び、同じ道を歩むパートナーが現れたことを嬉しく思います」
 男はその台詞に軽く目をみはって、そして、オーナーの口調と同じくらい静かな微笑みで答えた。

 チリン、チリンと、来たときと同じようにドアベルを鳴らして男は立ち去っていった。

  *

 さて。
 会計をするとき、男は内緒話をするような小声で少年に囁いたのだった。
「次は嫁さんと一緒に来るわ。ええな?」
 だから少年は、普段の接客通りに答えたのだ。
「お待ちしています」
 と。

 その話をバーテンにしたら、呆れたような気の毒そうな、実に不思議な表情をしたのだった。
「……あの人、お前の憧れの人の旦那さんだよ」
「ええ!?」

 次に会ったら、左手薬指に指輪がない謎を二人に教えてもらおうと少年は思った。
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